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7月, 2023の投稿を表示しています

由利あけみ(1913~2010)

熱海ブルース 昨日来た街昨日来た街今日また暮れてつきぬ情いの湯けむりよ雨の匂いもやさしく甘く君は湯上り春の顔宮を泣かした宮を泣かした横磯あたりおぼろ薄月気にかかる女ごころと温泉のなさけ口にいえないことばかり熱海湯の街熱海湯の街湯の香に開く花は白梅山ざくら仇に散らすな奥山しぐれ濡れて玄岳越えらりょか

デヴィッド・ヘネシー(1858~1890)

警察官として 1881年にはいとこであるマイケル・ヘネシーと共にイタリア人の凶悪犯であるジュゼッペ・エスポジートを逮捕した。エスポジートはイギリス人の旅行者を誘拐して耳を切り落とし、数えきれない犯罪を犯してアメリカに逃亡しイタリアから指名手配されていた。エスポジートは逮捕後にイタリアに送還され、終身刑に処されたという。

塩まさる(1908~2003)

九段の母 上野駅から九段まで勝手知らない焦れったさ杖を頼りに一日がかり倅来たぞや逢いに来た空を衝くよな大鳥居こんな立派な御社に神と祀られ勿体なさよ母は泣けます嬉しさに両掌合せて跪き拝むはずみの御念仏ハッと気付いてうろたえました倅許せよ田舎者鳶が鷹の子生んだ様で今じゃ果報が身に余る金鵄勲章が見せたいばかり逢いに来たぞや九段坂

マシンガン・ケリー(1895~1954)

犯罪 1920年代から30年代にかけての禁酒法の時代。他の犯罪者達と同様、彼も酒の密造に手を染めることにした。しかし、それも長くは続かず、メンフィス警察と何回か小競り合いしたあと、彼は新しいガールフレンドと共に町を出ることにした。

児玉清(1933~2011)

 レギュラー番組 児玉は朝日放送テレビ『パネルクイズ アタック25』の初代司会を、1975年4月6日の放送開始から2011年の死去直前の第1795回まで36年間にわたって務めた。

ロバート・フランクリン・ストラウド(1890~1963)

レブンワースの鳥男 ストラウドの活動は刑務所の運営にとって問題も起こした。規則では、刑務所で送受する手紙は全て目を通してコピーをとった後に承諾を受けることになっていた。ストラウドが鳥類関係の事業に没頭したことで、この手紙の規則を果たすだけでフルタイムで働く事務官が必要になった。そのうえ、ストラウドが飼育していた鳥はほとんどいつも独房内を自由に飛ぶことが許可されており、数多くの鳥が飼育されていたために、ストラウドの独房はひどく不潔になった。

白鳥由栄(1907~1979)

秋田刑務所 1941年10月、戦時罪因移送令に基づき秋田刑務所に移監される。脱獄したため特別房入りの待遇であった。高さ3メートルの牢屋で天窓があるだけである。あまりの寒さに防寒着を要求するものの拒否され、脱獄を決意。

モーリス・シュヴァリエ(1888~1972)

スターに 大戦後はミュージック・ホールにカムバックし、もっぱら舞台中心に活躍、やがてその評判は遠く海外まで及び、フランスで最も有名な寄席芸人の一人となる。1926年、当時出演していたブーフ・パリジャンの踊り子イヴォンヌ・ヴァレと愛し合うようになり、この頃、シュヴァリエが神経衰弱に陥っていたのを彼女が看病していたこともあって、母の勧めで結婚する。1927年には夫婦で舞台共演したこともあった。

安芸ノ海節男(1914~1979)

横綱昇進 「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、1940年1月場所で関脇に昇進。同年5月場所、14勝1敗で初優勝した。場所後、同部屋の五ツ嶋奈良男と同時に大関に昇進した。

フリッツ・シュトラスマン(1902~1980)

核分裂反応 核分裂反応とは、原子核が分裂して同程度の大きさの原子核に分かれること。核分裂または原子核分裂ともいう。1938年に、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンらが天然ウランに低速中性子を照射し、反応生成物にバリウムの同位体を発見した。この結果をリーゼ・マイトナーとオットー・ロベルト・フリッシュらがウランの核分裂反応であると解釈し、fissionの語を当てた。

結城道子(1908~不明)

裏町人生 暗い浮世のこの裏町を覗く冷たいこぼれ陽よなまじかけるな薄情け夢も侘しい夜の花やけにふかした煙草のけむり心うつろなおにあざみままよ火の酒あおろうと夜の花ならくるい咲き誰に踏まれて咲こうと散ろと要らぬお世話さ放っときな渡る世間を舌打ちですねた妾がなぜ悪い霧の深さに隠れて泣いた夢が一つの想い出さ泣いて泪が枯れたなら明日の光りを胸に抱く

ヘレン・レディ(1941~2020)

私は女 「私は女」は、ヘレン・レディが1971年に発表した楽曲。翌1972年に再録音されたバージョンが全米1位を記録した。女性の社会的地位の向上を強く訴える内容から、第二派フェミニズムにおけるウーマン・リブ運動の讃歌となった。

杉本良吉(1907~1939)

国境取締法 この一件は、駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。この事件を機に日本では翌1939年に特別な理由なく樺太国境に近づくこと等を禁じた国境取締法が制定された。しかし、不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で岡田は杉本と離された。時は大粛清の只中であり、杉本と岡田はスパイとして捕らえられ、GPUの取調べを経て、別々の独房に入れられ2人はその後二度と会うことはなかった。日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せたのである。

アルバート・ビアスタット(1830~1902)

コーコラン山  

川上哲治(1920~2013)

現役時代~第二次世界大戦前・戦中~ 卒業後、鉄道員の道を勧める父を説得して、1938年9月に東京巨人軍にバッテリーを組んだ吉原とともに投手として入団。阪神、阪急、新球団の南海との争奪戦の末の獲得だったが、各球団の狙いは強打者でもある捕手の吉原であり、投手の川上はそのついでという扱いだったという。契約金は300円・月給110円だった。川上は巨人と契約した1週間後に南海の契約金500円・月給150円という好条件を聞き、巨人と契約したことを悔やんだという。この年の巨人は川上、吉原の他、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。

ブッチ・キャシディ(1866~1908)

1896年 - 1897年 出所して「ワイルド・バンチ」を結成する 出所後、彼は幅広く犯罪者集団と付き合い、親友のエルジー・レイ、ハーヴェイ・「キッド・カリ」・ローガン、ベン・キルパトリック、ハリー・トレーシー、ウィル・「ニューズ」・カーヴァー、ローラ・ブリオンおよびジョージ・カリとともにギャング団「ワイルド・バンチ」を結成した。結成とともに彼の犯罪活動はかなり活発になった。ワイルド・バンチがどれほど暴力的であったかに関しては論争があるが、ワイルド・バンチの構成員の誰にも誅殺罪の嫌疑をかけられた明確な史実は無い。

平井英子(1918~2021)

兎のダンス ソソラソラソラ兎のダンスタラッタラッタラッタラッタラッタラッタラ脚で蹴り蹴りピョッコピョッコ踊る耳に鉢巻ラッタラッタラッタラソソラソラソラ可愛いダンスタラッタラッタラッタラッタラッタラッタラとんで跳ね跳ねピョッコピョッコ踊る脚に赤靴ラッタラッタラッタラ

アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)

人間と市民の権利の宣言 ナリーニョはアメリカ独立戦争とフランス革命の経過に多大な関心を示した。ボゴタの地下政治集会に出入りし、興味を同じくする人々と交流した。1794年、彼はフランス政府が配布した「人間と市民の権利の宣言」を入手し、スペイン語に翻訳した。そして自分の印刷機で印刷し、友人たちに配った。結果的にこの文書は他の印刷所でも印刷され南米全域に行き渡った。

徳山璉(1903~1942)

ルンペン節 青い空から紙幣の束が降ってとろり昼寝の頬ぺたをたたく五両十両百両に千両費い切れずに目がさめたアーハッハッハアッハッハスッカラカンの空財布でも、ルンペンのんきだね酔った酔ったよ五勺の酒で酔った目で見りゃスベタも美人バット一本ふたつに折ってわけて喫うのもおつなものアーハッハッハアッハッハスッカラカンの空財布でも、ルンペンのんきだねプロの天国木賃ホテル抱いて寝てみりゃ膝っこも可愛い柏蒲団に時雨を聴けば死んだ女房が夢に来たアーハッハッハアッハッハスッカラカンの空財布でも、ルンペンのんきだね金がないとてくよくよするな金があっても白髪ははえるお金持ちでもお墓はひとつ泣くも笑うも五十年アーハッハッハアッハッハスッカラカンの空財布でも、ルンペンのんきだね

ジルベール・ベコー(1927~2001)

水玉のタイ 水玉のネクタイは彼のこだわりであり、お守りでもある。これには歴史がある。ベコーはピアノを学んでいた青年時代、ジャック・ダティンの代わりのピアニストを探していた。ピアノバーのテストを受けようとした。しかし、オーナーはネクタイをしていない彼を見て、店の格式にそぐわないので不採用だと告げた。ベコーはその時同行していた母親の青地に白い水玉模様のドレスを切って、首にネクタイのように巻いて再びバーの店主に会いに行き、無事に採用された。彼は経歴の始まりにおけるこの出来事を胸に刻み、紺に水玉模様のネクタイをトレードマークとするようになった。

新橋みどり(1917~1942)

若しも月給が上がったら もしも月給が上がったらわたしはパラソル買いたいわ僕は帽子と洋服だ上がるといいわね上がるともいつ頃上がるのいつ頃よそいつがわかれば苦労はないもしも月給が上がったら故郷から母さん呼びたいわおやじも呼んでやりたいね上がるといいわね上がるともいつ頃上がるのいつ頃よそいつがわかれば苦労はないもしも月給が上がったらポータブルなども買いましょう二人でタンゴも踊れるね上がるといいわね上がるともいつ頃上がるのいつ頃よそいつがわかれば苦労はないもしも月給が上がったらお風呂場なんかもたてたいわそしたら流してくれるかい上がるといいわね上 がるともいつ頃上がるのいつ頃よそいつがわかれば苦労はない

ワシントン・デューク(1820~1905)

タバコ業界のキャリア 1880年、60歳になったデュークは、近くのフランクリン郡の農家であるリチャード・ハーベイ・ライトに事業の株式を売却した。ワシントン・デュークの息子のジェームズを社長を務めるW・デューク・アンド・サンズ社は、やがてタバコメーカーとして大きな成功を収めた。この事業は、1890年頃にアメリカン・タバコ・カンパニーとなった。そして、複数のパートナーの合併や、株式の浮動株化によって、世界最大のタバコメーカーとなった。

愛新覚羅溥傑(1907~1994)

満州と日本での生活 1938年10月、満洲国駐日大使館附武官室勤務を命じられて東京に赴任。翌1939年11月に奉天の歩兵将校軍官学校教官に任官され、1941年からは新京の満州国軍官学校で教鞭を執る。同年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と交戦状態に入ったことを受け、満洲国もこれらの国々と戦争状態に入ったものの、満洲国はほとんど戦禍を受けなかったために、満洲国陸軍の将校として前線に出ることはなかった。

フランク・ノックス(1874~1944)

米西戦争から第一次世界大戦まで 米西戦争終結後、ノックスはミシガン州グランドラピッズに移り、新聞記者となった。そしてその後、ノックスは複数の新聞社を所有するまでに成長した。ノックスは1912年の大統領選挙において、進歩党から立候補したセオドア・ルーズベルトを支持した。ノックスはこの大統領選挙において、ルーズベルトの唯一の支持者であった。

児玉好雄(1909~1986)

無情の夢 あきらめましょうと別れてみたが何で忘りょう忘らりょか命をかけた恋じゃもの燃えて身をやく恋ごころ喜び去りて残るは涙何で生きよう生きらりょか身も世も捨てた恋じゃもの花にそむいて男泣き

ヘンリエッタ・ロナー=クニップ(1821~1909)

母の威厳  

高田浩吉(1911~1998)

大江戸出世小唄 土手の柳は風まかせ好きなあの子は口まかせええしょんがいなああしょんがいなきりょう良いとて自惚れなどうせ一度は散る花よええ風が吹くああ風が吹く雨が降ったらその時は俺の涙と思やんせええしょんがいなああしょんがいな

アルフレッド・ランドン(1887~1987)

政治的経歴~1936年大統領選挙に立候補~ 1936年にランドンは知事としての3選を目指さず、共和党の大統領候補としてルーズベルトに挑戦することを選んだ。共和党大会で彼は第一回投票で大統領候補に指名された。ちなみに副大統領候補はウィリアム・フランクリン・ノックスであった。大統領候補としてもランドンは社会保障を中心にニューディール政策を是認したが、一方で政権の財界への敵意と無駄な支出を批判した。ランドンはルーズベルトを尊敬しており、敬意を表明し称えることを憚らなかった。このようなランドンの姿勢は、紳士的であると多くの人々の敬意を集めた。選挙は1964年の大統領選に次ぐ大差でのルーズベルトの地滑り的勝利で決した。ランドンが勝利した州はわずかにバーモント州、メイン州の2州であった。

杉狂児(1903~1975)

うちの女房にゃ髭がある 何か云おうと思っても女房にゃ何だか云えませぬそこでついつい嘘をゆうなんですあなたいや、別に、僕は、その、あのパピプペパピプペパピプペポうちの女房にゃ髭がある朝の出がけのあいさつも格子をあけての只今も何だかピクピク気がひけるなんですあなたいや、別に、僕は、その、あのパピプペパピプペパピプペポうちの女房にゃ髭がある姿やさしく美しくどこがこわいかわからないここかあそこかわからないなんですあなたいや、別に、僕は、その、あのパピプペパピプペパピプペポうちの女房にゃ髭がある地震雷火事おやじそいつは昔のことですよ今じゃ女房が苦手だねなんですあなたいや、別に、僕は、その、あのパピプペパピプペパピプペポうちの女房にゃ髭がある

エドワード・ウッド(1881~1959)

外務大臣として ドイツのオーストリア併合が迫る中、チェンバレン首相はイタリアに接近してドイツを牽制することを考えたが、外務大臣アンソニー・イーデンはスペイン内戦でイタリアがイギリスとの約束を破ったことからイタリア軍がスペインから撤兵するまでイタリアと了解関係に入るべきではないと主張してイタリア接近に反対した。結局イーデンは1938年2月に辞職することになり、その後任の外務大臣にはイタリアへの接近政策に賛成するハリファックス卿が就任することになった。

豆千代(1912~2004)

明治一代女 浮いた浮いたと浜町河岸に浮かれ柳のはずかしや人目しのんで小舟を出せばすねた夜風が邪魔をする怨みますまいこの世の事は仕掛け花火に似た命もえて散る間に舞台が変わるまして女はなおさらに意地も人情も浮世にゃ勝てぬみんなはかない水の泡沫泣いちゃならぬと言いつつ泣いて月にくずれる影法師

アンソニー・イーデン(1897~1977)

首相就任 1955年4月のチャーチルの引退に伴って保守党党首・首相となった。就任後間も無い5月27日に実施された総選挙では、長いチャーチル時代と変わる新鮮さとイーデンの華々しいイメージも幸いし、労働党の277議席に対して保守党は344議席という圧倒的勝利を収める。この頃のイーデンのスローガンは「Peace comes first, always」であった。

伏見信子(1915~不明)

花言葉の唄 可愛いつぼみよきれいな夢よ乙女心によく似た花よ咲けよ咲け咲け朝露夜露咲いたらあげましょあの人に風に笑うて小雨に泣いてなにを夢見る朝花夜花色は七色想いは十色咲いたらあげましょあの人に白い花なら別れの涙赤い花ならうれしい心青い花なら悲しい心咲いたらあげましょあの人に

ラジーヴ・ガンディー(1944~1991)

国民会議派の方向転換とインド人民党の台頭 総選挙では国民会議派が再び過半数を得て、ラーオ内閣が成立、おりからの冷戦の解消、ソ連の崩壊という国際関係の激変を受けて思いきった方向転換を遂げ、経済自由化による成長を至上命題とすることとなり、従来の計画経済路線を転換して大胆な市場経済の導入を図った。

浜田国松(1868~1939)

腹切り問答 腹切り問答とは、1937年1月21日に帝国議会の衆議院本会議で浜田国松と寺内寿一陸軍大臣との間で起こったやりとり。切腹問答、割腹問答ともいう。これが原因で広田内閣は総辞職した。

フレデリック・セシジャー(1868~1933)

インド総督 第一次世界大戦中の1916年4月にインド総督ハーディング男爵が任期を終えて退任するとチェルムスフォード卿がその後任となった。彼にはオーストラリアでの知事経験しかなかったが、戦時中の人材不足でたまたまインドにた彼が任命されたといわれている。

森英恵(1926~2022)

HANAE MORI 1954年、銀座にブティック&サロンHANAE MORIを開き、1965年にはニューヨーク・コレクションに初参加。1977年、パリ・コレクションに進出した。初期に蝶のモチーフで有名になったため、永続的にブランドのシンボルとしている。全盛期の1980年代後半には国内6社、海外4社のグループの年商は400億円以上といわれた。

ゾフィー・ルイーゼ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン(1685~1735)

結婚 50歳であったプロイセン王フリードリヒ1世は、2番目の后ゾフィー・シャルロッテが1705年に亡くなった後、首相ヴァルテンブルク伯の周辺から再婚するよう圧力をかけられていた。王位継承者を安定的に確保するため、病がちであった王は独り身を続けることがないよう説得された。一人息子フリードリヒ・ヴィルヘルムにも、この時点で王位継承者がいなかった。歳老いた王が再婚することで、この不安定な状況を変える可能性があった。

松下之綱(1537~1598)

秀吉に仕える やがて今川氏が滅亡すると、徳川家康に仕えるが、1574年の第1次高天神城の戦いにおいて籠城して武田氏と戦うも、のちに降伏した。すると、織田氏家臣で長浜城主になっていた秀吉によって、之綱は家臣として召し出されたとみられる。1575年の長篠の戦いの際には秀吉の前備として兵100を預けられた。

シルヴィア・アンダーソン(1927~2016)

タレント・スカウトと執筆業 1983年に彼女は『Love and Hisses』という小説を出版し、1994年には『アブソリュートリー・ファビュラス』のある一話でレディ・ペネロープの声を担当した。またHBOのロンドンを拠点にしたタレント・スカウトで30年に渡って働いた。

川口松太郎(1899~1985)

鶴八鶴次郎 時は大正時代。舞台は東京。鶴賀鶴八、鶴次郎という新内の名コンビがいた。彼らは、心の中ではお互いに尊敬し好意を抱き合っていたが、芸への熱意から頻繁に喧嘩していった。喧嘩別れをし、鶴八は料亭へ嫁がざるを得なくなった。

イヴァン・アイヴァゾフスキー(1817~1900)

虹  

美ち奴(1917~1996)

ああそれなのに 空にゃ今日もアドバルーンさぞかし会社で今頃はおいそがしいと思うたにああそれなのにそれなのにねえおこるのはおこるのはあたりまえでしょうどこで何しているかしらなにか悲しい日暮どき想うは貴方のことばかりああそれなのにそれなのにねえおこるのはおこるのはあたりまえでしょうひとり出ているお月様窓で見ているこのわたしとぎれとぎれの針仕事ああそれなのにそれなのにねえおこるのはおこるのはあたりまえでしょう夜更けに聞こえる足の音耳をすませば胸が鳴る帰って来たかと立ち上るああそれなのにそれなのにねえおこるのはおこるのはあたりまえでしょう

アンニーバレ・カラッチ(1560~1609)

猫をからかう二人の子ども  

市丸(1906~1997)

天竜下れば ハァ天竜下ればョホホイノサッサしぶきに濡れてョ咲いた皐にエー咲いた皐に虹の橋ホンニアレワサノ虹の橋ハァ伊那の夕空ョホホイノサッサあの片時雨ョ明日は下りぢゃエー明日は下りぢゃ笠ほしやホンニアレワサノ笠ほしやハァ筏つないだョホホイノサッサ藤蔓さへもョ切れりゃ気になるエー切れりゃ気になる夫婦岩ホンニアレワサノ夫婦岩

バースィル・アサド(1962~1994)

父の後継者候補として 大病を患った父のハーフィズが1984年に復帰すると、バースィルは父に付き添うようになった。もともとは、バースィルの叔父のリファアト・アリー・アサドがハーフィズの後継者として選ばれていたが、リファアトは、1984年にハーフィズが心臓病で一時意識不明になっていた間に政権奪取を試み、そして失敗したため、国外追放になった。この事件以来、バースィルに帝王学が授けられるようになった。