外交と内政改革
国政の細部に無関心な王から実務を任され、外国使節の間で「もう1人の国王」と渾名されたが、実際の王は外交・軍事に関しては積極的に関与、政事を自ら裁可することもあった。かたやウルジーは王の支持だけが基盤のため、彼の意向を忠実に汲み取り従うしか無かった。また教皇の地位を狙い、1521年のレオ10世死去、1523年のハドリアヌス6世死去で行われたコンクラーヴェに出馬したとされるが、ローマ教皇庁への連絡が疎かだと教皇と同輩の枢機卿から苦情が上がっていたこと、出馬はヘンリー8世の方が積極的でウルジー本人は不出馬を明言したことなどから否定されている。2度のコンクラーヴェで教皇はそれぞれハドリアヌス6世、クレメンス7世が選出されたが、後にヘンリー8世は離婚問題でクレメンス7世と決裂することになる。
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