治承・寿永の乱
治承・寿永の乱が起こると頼朝に従い、1180年に下野茂木郡の地頭に任じられている。1183年、野木宮合戦で小山氏とともに志田義広を撃破し、義広に与した常陸の武士・下妻弘幹の没収領が与えられた。続く平氏追討においては長男・朝重とともに源範頼軍にあったが、西国に下る以前に頼朝の推挙を得ないまま無断で右衛門尉に任官したため、同じく兵衛尉に任じられた小山朝政とともに「のろまな馬が道草を食うようなものだ」と頼朝の怒りを買っている。1185年平氏滅亡後は鎌倉に戻り、勝長寿院落成供養に出席しているが、1186年に再度上洛して朝廷や九条兼実との交渉を担当。同年、郎党の庄司太郎が大内夜行番を怠ったため検非違使に捕らえられる事件が起き、知家が実力で庄司太郎を奪還したため朝廷より訴えられる。そのため翌1187年に頼朝より下手人の引き渡しと、罰として鎌倉の街道整備を命じられている。1189年の奥州合戦では千葉常胤とともに東海道軍の大将軍に任じられ、朝重ら常陸国の兵とともに陸奥国へ出陣した。1190年の頼朝の上洛に随行し、頼朝の推挙で知家に代わって朝重が佐兵衛尉に任官している。
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