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藤島桓夫(1927~1994)

月の法善寺横丁
包丁一本晒に巻いて旅へ出るのも板場の修業待っててこいさん哀しいだろがああ若い二人の想い出にじむ法善寺月も未練な十三夜
(せりふ)こいさんが私を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上った晩やった。「早う立派な板場はんになりいや」ゆうて、長い事水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあァ。あの晩から私は、私は、こいさんが、好きになりました。
腕をみがいて浪花に戻りゃ晴れて添われる仲ではないかお願いこいさん泣かずにおくれああいまの私には親方はんにすまないが昧の暖簾にゃ刃が立たぬ
(せりふ)死ぬ程苦しかった私らの恋も、親方はんは許してくれはった。あとはみっちり包丁の修業を積んで一人前の料理人になる事や。「な、こいさん、待っててや・・・。ええな、こいさん。」
意地と恋とを包丁にかけて両手あわせる水掛不動さいならこいさんしばしの別れああ夫婦善哉想い出横丁法善寺名残つきない燈がうるむ

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