プロレス転身
その後二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務め、当時横浜市本牧に本社があった新田建設に資材部長として勤務。次男の光雄によれば「建築現場の監督をしていた」という。ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田と知り合い意気投合した。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・フランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。
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