長期トルコ戦争
このような状況は西の戦線でも見られ、1591年にオスマン帝国のボスニア州の知事が王領ハンガリーに侵攻したのを契機として1592年に、ビハチ城塞を陥落させた。そこでキリスト教徒5000人が殺害されたという。1593年、コジャ・シナン・パシャに引きずられ、有力軍人たちの覇権争いの結果として、本格的に王領ハンガリーへの侵攻が始まった。当初はウィーンに通じる要衝のジュールを占領など戦果を挙げた。しかし、シサクの戦いで敗れ、1595年にエステルゴム要塞を失った。オスマン側の不利と見たトランシルヴァニア、ワラキア、モルドバの三国はハプスブルク側についた。さらには、カルガレニの戦いでシナン・パシャ率いる軍がミハイ勇敢公に敗れた。この戦争においてある城を取れば別の城が奪われるという一進一退の状況が生まれた。このハプスブルク側との戦争は長期にわたり、和議が成立したのは、アフメト1世の頃だった。
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