江戸時代後期の侠客
その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、1835年には玉村兄弟が山王堂村の民五郎の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。また、忠治はこのころ発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行うと称し桐生の商家数件に押し入り現金を奪うとともに商家の娘数人を強姦する事を繰り返した。施しの記録としては子供の頃から知る老婆に銀1枚を与えた話が残っている、1838年には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。
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