社長時代
任天堂が苦境に陥っている最中、1965年に入社した横井軍平がが暇つぶしで作っていた遊び道具を1966年にウルトラハンドとして商品化させたところ大ヒットを記録。横井軍平を玩具商品開発の主任に据える。以降、電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットを出した。デパートのおもちゃ売り場と得意の関係になったことなどから、1970年の光線銃SPのヒットを機に、山内は多角経営路線を諦めた。しかし、光線銃SPの発展版ともいえる「レーザークレー射撃場」という施設を全国各地に展開させようともくろみ、一時は軌道に乗り掛けたものの、運悪く第一次オイルショックが起き、その影響で建設計画撤回が相次ぎ、任天堂は多額の負債を背負い、再び倒産危機に直面することになる。しかし、山内はアーケードゲームに可能性を見出し、その路線を突き進むことになる。
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