スポーツ指導者として
だが、1962年の第4回アジア競技大会でホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否し、それに対して国際オリンピック委員会がこの大会を正規な競技大会と認めないという姿勢を打ち出したことで日本選手を出場させるべきかという問題に巻き込まれることになった。最終的に日本選手団は重量挙げを除いて出場したものの、この問題の責任を取る形で田畑もJOC会長で組織委員会会長の津島寿一とともに辞任することとなった。この時の心情について、後年自らの著書に「血の出る思いをして、われわれはレールを敷いた。私が走るはずだったレールの上を別の人が走っている」と記している。
コメント
コメントを投稿