関中を統治する
202年、袁尚と手を結んだ匈奴単于が河東郡平陽で反乱を起こすと、鍾繇は平陽を包囲した。このため袁尚配下の郭援や高幹が平陽へ救援に向かった。諸将が郭援の勢いが盛んであることを理由に撤退を主張したが、鍾繇は関中の不安定な状勢を考えると撤退が難しいと説得し、また縁戚でもある郭援の性格を熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した。一方で張既に命令して、馬騰に郭援を討伐するよう説得させた。馬騰は説得に応じ、援軍として子の馬超や龐徳ら一万余人を送った。鍾繇は馬超・龐徳とともに郭援と戦い、川を渡りきる前に攻撃して大破し、郭援を討ち取り呼廚泉を降伏させた。鍾繇は、郭援を直接討ち取った龐徳から首級を見せられ号泣したが、陳謝する龐徳に対して「郭援は謀反人であるのだから、謝罪の必要はない」と言い、公私の別を明らかにしたという。
コメント
コメントを投稿