慶長遣欧使節~背景と目的~
これより先、「天下人」・豊臣秀吉はキリシタンに対して厳禁の態度で臨んだが、秀吉の次に「天下人」になった徳川家康は貿易の利益に着目して禁令を緩めた。こうした中、1609年、「太陽の沈まない帝国」と謳われた「世界最大の植民地保有国」であるスペイン王国の植民地の一つ、前フィリピン総督ドン・ロドリゴとキリスト教ローマ・カトリックのイエズス会の宣教師であるスペイン、セビリア市の貴族、ルイス・ソテロが乗ったサン・フランシスコ号が上総国岩和田村に漂着するという事件が発生した。翌1610年、「天下人」徳川家康は前フィリピン総督ロドリゴの代理人であるルイス・ソテロと交渉をして、日本とスペインの通商を約束した。1611年、徳川家康はフィリピンの前総督ロドリゴと、病気になったルイス・ソテロの代わりのスペインの使節としてアロンソ・ムニョスを、および家康の代理人である京都の商人・田中勝介を、フィリピンと同じスペインの植民地の一つであるメキシコへ送り届けた。しかし、家康は外交顧問であるウィリアム・アダムスから、カトリックの布教を許せばスペインがそれをてこにして日本を植民地にしかねないという進言を受け、スペインと通商条約の締結をしなかった。同1611年4月、スペイン国王フェリペ3世は徳川家康が前フィリピン総督ロドリゴらをメキシコまで送り届けてくれたお礼として、スペイン提督セバスティアン・ビスカイノのを答礼使として、スペインの軍艦に田中勝介を乗せて日本へ送り届けた。
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