安政の大獄
1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。梁川星巌がコレラで亡くなる際、三樹三郎がその最期を看取ったという。同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の阿部家福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である。福山藩主の石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。享年35。墓は京都円山公園の裏にある長楽寺と松蔭神社にある。
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