アルビジョワ十字軍
シモンはフランスの領地に滞在していたが、再び十字架を掲げキリスト教徒の異端征伐に向かうことになった。1206年頃、シモンの友でヴォー・ド・セルネー修道院長ギィが、ドミニコ・デ・グスマンやピエール・ド・カステルノーといった聖職者たちともに、オクシタニアの異端カタリ派を改宗させるべく説教するよう要請された。彼らの伝道活動はほんのわずかしか成果を得られず、教皇特使カステルノーはトゥールーズ伯レーモン6世を破門した。ところがカステルノーは1208年1月14日に暗殺された。インノケンティウス3世はカタリ派征伐の遠征隊派遣を決め、聖地で戦った者と同じく、免罪符と特別なはからいをカタリ派征伐の戦士に与えることにした。ポブレー修道院の修道士アルノー・アモーリーと院長ギィは、フランス王国内を歩いて回り、男爵たちに『十字軍』に参加するよう説いた。
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