月形半平太
1917年、島村抱月主宰の芸術座を脱退した沢田正二郎、倉橋仙太郎、金井謹之助らにより結成された「新国劇」が旗揚げ公演に興行的に失敗、大阪に赴き、翌1918年、行友李風を座付き作者として迎える。そこで書かれたのが、『月形半平太』および『国定忠治』であり、1919年の京都明治座での初演で大好評を得、また同年、『国定忠治』も名古屋末広座での初演が大好評、この2作は「新国劇」の財産演目となる。沢田は「剣劇」を演じたいために新国劇を立ち上げたわけではなかったが、『月形半平太』がたまたま受けたために、新国劇は以降「剣劇」の演目が増えていった。
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