アッツ島玉砕、キスカ島撤退
1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。
1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。
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