私擬憲法
1879年には愛知で旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立、翌年には組織を拡大改組し愛知県交親社を設立した。同年の3月の大阪で開催された愛国社第4回大会にはこの愛知県交親社の代表として参加している。県下の民権運動の指導者として活躍し、「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党の設立に関わって幹事に選出され、「大日本国憲草案」を起草。また、板垣退助の秘書となり、板垣が岐阜で遭難した時には、暴漢を投げ飛ばして取り押さえ、窮地を救ったとも言われる。この遭難事件の際に板垣が叫んだとされる「板垣死ストモ自由ハ死セズ」は、内藤が叫んだものという説もある。
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