江島生島事件
1714年2月26日、時の徳川家第七代将軍である家継の母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野・寛永寺、芝・増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。だが審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっており、判決には門限は重要視されなかった。
1714年2月26日、時の徳川家第七代将軍である家継の母月光院に仕える御年寄・江島は、主人の名代として同じ年寄の宮路と共に上野・寛永寺、芝・増上寺へ前将軍家宣の墓参りに赴いた。その帰途に懇意にしていた呉服商後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れ渡り、評定所が審理することになった。だが審理する理由は門限に遅れたことではなく、大奥の規律の弛緩を重要視したためとなっており、判決には門限は重要視されなかった。
コメント
コメントを投稿