ハドリアノポリスの戦い~直前の状況~
378年春、ウァレンスはアンティオキアからドナウ川南岸に近いコンスタンティノポリスに向けて出立したが、途中軍を集めながら行軍したため、到着に5月末までかかった。コンスタンティノポリス滞在中、共同のローマ皇帝で帝国の西半分を任されていた甥のグラティアヌスから援軍に関する書簡が届いたが、ウァレンスは自分より戦功を遂げていた甥に対し負い目があったためこれを拒否した。この間、西ゴート族側も、渡河をしていなかった部族に招集をかけた上でトラキアから一路コンスタンティノポリスを目指し南下を始めた。迎え撃つ形のローマ軍もエグナティア街道を東進し、両軍の中間に当たるハドリアノポリスで戦端が開かれた。
378年春、ウァレンスはアンティオキアからドナウ川南岸に近いコンスタンティノポリスに向けて出立したが、途中軍を集めながら行軍したため、到着に5月末までかかった。コンスタンティノポリス滞在中、共同のローマ皇帝で帝国の西半分を任されていた甥のグラティアヌスから援軍に関する書簡が届いたが、ウァレンスは自分より戦功を遂げていた甥に対し負い目があったためこれを拒否した。この間、西ゴート族側も、渡河をしていなかった部族に招集をかけた上でトラキアから一路コンスタンティノポリスを目指し南下を始めた。迎え撃つ形のローマ軍もエグナティア街道を東進し、両軍の中間に当たるハドリアノポリスで戦端が開かれた。
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