イドリース朝
第4代カリフのアリーとその妻のムハンマドの娘ファーティマの血を引くというイドリース・イブン・アブドゥッラーが、メディナでアッバース朝のカリフのハールーン・アッ=ラシードに対する反乱を起こして失敗し、西に逃れてマグリブ地方の西端のモロッコに渡り、その地のベルベル人の支持を受けて、789年にイドリース1世として建国した。従ってイドリース朝は、史上最初のシーア派の国家とされるが、この段階ではシーア派としての特色を持ってはいなかった。イドリース1世は都のフェスを建設、ベルベル人の女性との間に生まれたイドリース2世は周辺に領域を広げ、実質的なモロッコ最初の王となった。しかしその死後はチュニジアに起こったファーティマ朝と、イベリアの後ウマイヤ朝の間にあって苦慮し、内紛が生じて弱体化し、926年にファーティマ朝によってフェスを占領されて滅んだ。なお、最終的には985年にイベリア半島の後ウマイヤ朝に滅ぼされたともされている。フェスはその後も西方イスラーム世界の文化の中心として重要で、現在も独自の都市形態を保持し、世界遺産に登録されている。
第4代カリフのアリーとその妻のムハンマドの娘ファーティマの血を引くというイドリース・イブン・アブドゥッラーが、メディナでアッバース朝のカリフのハールーン・アッ=ラシードに対する反乱を起こして失敗し、西に逃れてマグリブ地方の西端のモロッコに渡り、その地のベルベル人の支持を受けて、789年にイドリース1世として建国した。従ってイドリース朝は、史上最初のシーア派の国家とされるが、この段階ではシーア派としての特色を持ってはいなかった。イドリース1世は都のフェスを建設、ベルベル人の女性との間に生まれたイドリース2世は周辺に領域を広げ、実質的なモロッコ最初の王となった。しかしその死後はチュニジアに起こったファーティマ朝と、イベリアの後ウマイヤ朝の間にあって苦慮し、内紛が生じて弱体化し、926年にファーティマ朝によってフェスを占領されて滅んだ。なお、最終的には985年にイベリア半島の後ウマイヤ朝に滅ぼされたともされている。フェスはその後も西方イスラーム世界の文化の中心として重要で、現在も独自の都市形態を保持し、世界遺産に登録されている。
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