日本労農党
1926年労働農民党書記長となり、同年末、同党中間派が集まった日本労農党が発足するとその書記長に就任。中間派無産政党の離合集散の後、1932年、無産政党の統一体である社会大衆党の創設に参加する。弁護士・法律家の立場を生かして労働組合法案、小作法案、小作組合法案、健康保険法案の策定、工場法の改正などに尽力。1937年、第20回衆議院議員総選挙に東京で社会民衆党から立候補し、反ファッショと社会民主主義的公約をかかげ、衆議院議員に初当選。その後は政治活動に加え、河合栄治郎の公判の弁護を側面から支援し、ゾルゲ事件では尾崎秀実の親族の依頼を受け、官選弁護人の選任を務めている。
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