関ヶ原から江戸時代
1600年の関ヶ原の戦いでは、初めは石田三成の檄に従い、頼房は犬童頼兄を従えて上京。西軍に加わって伏見城の戦いなどに参加し、相良家臣・神瀬九兵衛は先登の功をあげた。しかし、他方で、頼兄は、家康家臣の井伊直政と内通して謀議を進めていた。大垣城籠城中の9月15日、関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、頼房は犬童頼兄の策を実行に移し、同じく籠城していた秋月種長・高橋元種兄弟も東軍の水野勝成の工作で内応したこともあり、これと共同で東軍に寝返り、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城内で謀殺し、東軍に降伏した。23日には大垣城守将の福原長堯も城を東軍に明け渡して投降した。福原を謀殺しその首を取ったのも相良の者という説もある。頼房と頼兄は不承不承に西軍についたと主張し、井伊に内通していたことから、家康に所領を安堵を許され、人吉藩2万石の初代藩主となった。犬童頼兄はこの頃より専断の徴候を見せ始め、家康の不興を買ったが、次第に藩政の実権を固めた。
1600年の関ヶ原の戦いでは、初めは石田三成の檄に従い、頼房は犬童頼兄を従えて上京。西軍に加わって伏見城の戦いなどに参加し、相良家臣・神瀬九兵衛は先登の功をあげた。しかし、他方で、頼兄は、家康家臣の井伊直政と内通して謀議を進めていた。大垣城籠城中の9月15日、関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、頼房は犬童頼兄の策を実行に移し、同じく籠城していた秋月種長・高橋元種兄弟も東軍の水野勝成の工作で内応したこともあり、これと共同で東軍に寝返り、熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城内で謀殺し、東軍に降伏した。23日には大垣城守将の福原長堯も城を東軍に明け渡して投降した。福原を謀殺しその首を取ったのも相良の者という説もある。頼房と頼兄は不承不承に西軍についたと主張し、井伊に内通していたことから、家康に所領を安堵を許され、人吉藩2万石の初代藩主となった。犬童頼兄はこの頃より専断の徴候を見せ始め、家康の不興を買ったが、次第に藩政の実権を固めた。
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