江戸時代と宇和島藩主
1602年9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫との間に虎菊丸が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、1603年1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。1609年、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が1611年12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。
1602年9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。だが正室である愛姫との間に虎菊丸が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、1603年1月に政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になりだした。1609年、秀宗は家康の命令で徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが弟の虎菊丸が1611年12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は伊達家の家督相続者から除外されることになった。この事情に関しては政宗の長男であったが、生母の飯坂氏が側室だったために本家の家督を嗣ぐことができなかったとされてきたがこれは誤りと言われており、「秀」の通字を受けて秀吉・秀頼の側に仕え、一時は豊臣姓まで賜った秀宗が徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で実際には除外されたとされている。
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