日本マラソンの父
金栗は3度のオリンピック参加を通じて、日本でのスポーツ振興の必要性を痛感した。特に女子も参加してスポーツが盛んなヨーロッパでの光景に感銘を受け、将来母となる女学生の心身を鍛えることは国の重大事であると指摘し、1921年東京府女子師範学校に勤めると、初めての女子テニス大会・女子連合競技大会を開催、1923年には関東女子体育連盟を結成するなど、女子体育の振興に尽力する。さらに地理の教師のかたわら、学校をまわって学生らと一緒に走り、スポーツの重要性を語り、競技会や運動会に顔を出してはマラソン普及に努め、暑さに強くなるように真夏の房総海岸での耐熱練習を繰り返し、心肺機能を高めるため富士山麓での高地トレーニングを続けたほか、日本体育・マラソン普及のため、1919年には下関―東京間約1200kmを20日間で走破、その後樺太―東京間、九州一周を踏破、全国走破を成し遂げた。
コメント
コメントを投稿