大日本法人報徳社建造物群~建築の経緯~
大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しており、登記面積は4,019.81m²である。経緯と時期は不明だが、廃藩置県後に岡田佐平治の子良一郎が始めた掛川農学社の所有地となり、現在大講堂のある場所には農学社学寮が建てられ、周辺にも無尽蔵舎、土蔵などが建てられた。1885年5月、この農学社が遠江国報徳社の第3館となり、農学社の演説会などが行われた。1901年9月25日、見付の第2館で行われた遠江国報徳社幹事会において、掛川の第3館に公会堂を建築することが議決された。1924年、良一郎は遠江国報徳社を全国的な組織とするため「大日本報徳社」と改称、本社を掛川に移す。1924年には全国約700社の報徳社が大合同した。昭和初期にかけて敷地内に報徳図書館、仰徳館などが建築され、現在に至っている。
大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しており、登記面積は4,019.81m²である。経緯と時期は不明だが、廃藩置県後に岡田佐平治の子良一郎が始めた掛川農学社の所有地となり、現在大講堂のある場所には農学社学寮が建てられ、周辺にも無尽蔵舎、土蔵などが建てられた。1885年5月、この農学社が遠江国報徳社の第3館となり、農学社の演説会などが行われた。1901年9月25日、見付の第2館で行われた遠江国報徳社幹事会において、掛川の第3館に公会堂を建築することが議決された。1924年、良一郎は遠江国報徳社を全国的な組織とするため「大日本報徳社」と改称、本社を掛川に移す。1924年には全国約700社の報徳社が大合同した。昭和初期にかけて敷地内に報徳図書館、仰徳館などが建築され、現在に至っている。
コメント
コメントを投稿