閑院宮家
しかし東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在位期間と重なっている。徳川綱吉はことのほか皇室を敬ったため、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していた。この結果、御料は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。次の将軍徳川家宣は近衛基熙の娘婿にあたり、東山天皇-近衛基熙-徳川家宣のラインの完成によって朝幕関係はもっとも安定した時期を迎える。天皇の在世中には実現できなかったものの、天皇の皇子・直仁親王によって新宮家を設置するに至ったのもこうした良好な幕府との関係を抜きにして語ることは出来ない。ただし、1700年には幕府に無断で武家伝奏の正親町公通を罷免している。それまで、武家伝奏の人事は幕府が行っていたが、天皇が幕府の許しを得ずに伝奏を罷免して、幕府にそれを異論を挟まなかったことは武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻すきっかけとなった。
しかし東山天皇の在位期間はいわゆる元禄時代に相当し、犬公方とよばれた徳川綱吉の将軍在位期間と重なっている。徳川綱吉はことのほか皇室を敬ったため、朝廷と江戸幕府との関係はおおむね良好に推移していた。この結果、御料は1万石から3万石に増え、山稜の大幅修繕なども実現した。次の将軍徳川家宣は近衛基熙の娘婿にあたり、東山天皇-近衛基熙-徳川家宣のラインの完成によって朝幕関係はもっとも安定した時期を迎える。天皇の在世中には実現できなかったものの、天皇の皇子・直仁親王によって新宮家を設置するに至ったのもこうした良好な幕府との関係を抜きにして語ることは出来ない。ただし、1700年には幕府に無断で武家伝奏の正親町公通を罷免している。それまで、武家伝奏の人事は幕府が行っていたが、天皇が幕府の許しを得ずに伝奏を罷免して、幕府にそれを異論を挟まなかったことは武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻すきっかけとなった。
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