島津忠義の生涯
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松清廉らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。1871年の廃藩置県後は、公爵となった。同年5月17日には麝香間祇候に任じられた。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松清廉らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。1871年の廃藩置県後は、公爵となった。同年5月17日には麝香間祇候に任じられた。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。
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