島津氏の対立と降伏
1575年には織田信長の依頼を受けた前関白・近衛前久が相良氏を始め、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。これを機に義陽は内外の文書に対して「義陽」名義の文書を出すようになり、大友宗麟も島津義久に対抗する上で相良氏との関係を重視する方針に転換して、1577年になって義陽に対して偏諱授与の事実を承認した。
1575年には織田信長の依頼を受けた前関白・近衛前久が相良氏を始め、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つ様に説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の大事件であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動して島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出した事でようやく実現している。これを機に義陽は内外の文書に対して「義陽」名義の文書を出すようになり、大友宗麟も島津義久に対抗する上で相良氏との関係を重視する方針に転換して、1577年になって義陽に対して偏諱授与の事実を承認した。
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