持明院統
持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王が天皇となった。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内のを仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して1302年に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。
持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王が天皇となった。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内のを仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して1302年に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。
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