復権と左大臣就任
1165年7月、二条天皇が崩御。後継の六条天皇は幼少であり、さらに翌年に摂政・近衛基実も薨去し二条親政派は瓦解する。同年10月10日、後白河院は清盛の協力により憲仁親王の立太子を実現した。翌月、清盛は内大臣となり、経宗は左大臣となる。経宗は後白河上皇に対して「太上天皇と正帝と差別なし」と表明して恭順の姿勢を示し、平家に対しても平重盛の室・経子と、その子・宗実を猶子とするなど親密な関係を築いた。経宗は以後、院御所議定に精力的に出席して後白河上皇の諮問に答え、政務に不慣れな平家一門に助言を与えることで、双方から確固たる信頼を獲得することに成功する。
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