保元・平治の乱
その後、平治の乱で源義朝が敗死すると、1161年には常陸国の佐竹義宗が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、藤原親盛とも結んで伊勢神宮に再寄進してこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る。これを知った常胤も翌月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜・度会彦章の対立が生じた。その後、義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、1163年に義宗の寄進を是とする宣旨が出され、続いて1166年6月18日に明盛から彦章に契状を提出し、1167年6月14日付で和与状が作成された。当時、和与による権利移転は悔返を認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗の勝訴が確定した。以後、常胤は義宗と激しく争うことになる。
コメント
コメントを投稿