延喜の治
時平は、醍醐天皇の前代宇多天皇の政治方針を継承した。宇多天皇の政治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、時平もこの方針を受け継ぎ、例えば時平執政期の902年には班田を励行する法令が発布されている。同様に、この時期に行われた延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたため、延喜の治は必ずしも成功したとは言えなかった。結果的には延喜の治は律令制復活の最後の試みとなり、次代の朱雀天皇および藤原忠平の治世から、律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築・充実が進展していったのである。
時平は、醍醐天皇の前代宇多天皇の政治方針を継承した。宇多天皇の政治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、時平もこの方針を受け継ぎ、例えば時平執政期の902年には班田を励行する法令が発布されている。同様に、この時期に行われた延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたため、延喜の治は必ずしも成功したとは言えなかった。結果的には延喜の治は律令制復活の最後の試みとなり、次代の朱雀天皇および藤原忠平の治世から、律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築・充実が進展していったのである。
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