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フランソワ・アシル・バゼーヌ(1811~1888)

クリミア戦争および第二次イタリア独立戦争
クリミア戦争中の1854年10月28日、旅団長に任じられたバゼーヌは、フランス東方派遣軍において2つの連隊を率いることとなった。1855年9月8日の連合軍のセヴァストポリ要塞への最終攻勢に際しては連合軍の最高司令官に推され少将に昇格、9月22日には連合軍の将のうちから占領したセヴァストポリの軍政司令官に任命されている。こうしてバゼーヌは44歳にしてフランス軍中最年少の将官となった。10月、セヴァストポリ北部に残るロシア軍にとどめの一撃を加えるため、フランスおよびイギリス混成軍を率いてドニエプル河口のキンブルン半島への奇襲上陸を果たしており、この働きは「現在、ドニエプル河口で行動しているフランス軍の一部を指揮するバゼーヌ将軍は、現代における最も華麗な軍事的達成者の一人として栄光に浴することになるだろう」と紙上で評された。この間戦傷により感状をうけ、またキンブルン半島を3日間占領した功によりレジオンドヌール勲章コマンドゥールを拝綬している。1856年1月25日、セヴァストポリ要塞内においてイギリスの初代ゴフ子爵よりクリミア戦争の功績に対してバス勲章を拝綬した。

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エイブラハム・ダービー1世(1678~1717)

ダービー父子~父、ダービー1世~ 父のダービーはブルストルで鋳物製造を行っていたが、砂型鋳物製造の特許を取り、事業を安定させ、1709年に石炭をコークス化して燃料として用い、鉄鉱石を熔解する高炉を成功させた。コークスは石炭を蒸し焼きにしてつくり、香炉の中で鉄鉱石と一緒に入れて燃やすと、不純物を除去することができる。また高炉はつねに高温を保たなければならないが、そのために従来は「ふいご」が使われていたがダービーは送風シリンダーを考案し、その問題も解決した。こうして本格的な製鉄業を興し、鍋などの生活用具からニューコメンの蒸気機関用の部品まで製造し、事業を成功させた。

度会家行(1256~1351)

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フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(1778~1852)

体操~ドイツ体操~ ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。バゼドーは神学教師であったが、哲学者ルソーの『エミール』に触発され、身体と精神は互いに助け合わなければならないと考え、その実現の場として1771年にデッサウに汎愛学校を設立し、平均台や徒歩競争などを含む体育法「ギリシャ体育」を生徒に施した。ヤーンは教育所を設立して高跳び用のスタンドなど体操用の器械を考案し、『ドイツ体操術』の著し、運動を愛国心に結び付け、旅先や公園で指導し、その発展と普及に努めた。今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。その後スピースに引き継がれ、号令による運動や性別・年令に応じた段階的・組織的運動などを採り入れ、ドイツ初の器具装備の体操場を造った。1860年にはドイツ体操祭が開催され、今も4年に一度開催されている。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われたが、医者などの支持を得て、今日に至っている。