藩政改革
周防・長門の2ヶ国に減封され、財政が極度に悪化した毛利氏は1607年に検地を行ったが、内容は収入の73%を徴収するという高税をかけているため、1608年に山代慶長一揆が発生、重税に苦しむ農民の逃亡と畑の荒廃をもたらした。元祥・秀元らは1625年に検地を再実施、税率を50%に引き下げて農民の負担軽減を図った。収入は1607年の頃より減少したが、この検地で打ち出した石高が長州藩の基盤となった。同時に家臣団の大幅な所領改替も行われ、藩主家の直轄領が収入高の土地を中心に増加、藩主の権力伸長にも繋がった。
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