キエフへの野心
ユーリーは北東ルーシの有力諸侯であることに甘んじず、キエフ大公の座を狙っていた。しばしば南西ルーシのキエフに攻め入り、その政争に関与したことから、「手長公」ドルゴルーキーの名が付いた。1132年、ユーリーの最年長の兄でキエフ大公のムスチスラフ1世が亡くなると、「ルーシの国は分裂した」と年代記は伝える。ユーリーはただちにチェルニゴフの諸公に宣戦し、ノヴゴロドで自分の息子に戴冠し、南のペレヤスラフを占領した。のちにノヴゴロドの住民がユーリーより離間すると、彼はノヴゴロドの主要な要塞都市トルジョークを占領してこれに報いた。
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