島原の乱
1601年、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代に島原の乱が勃発する原因の一つとなった。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した。しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには1659年まで掛かった。更に1671年に、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。
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