水戸徳川家
徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、徳川宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので、正式には御三家ではなかったとする説がある。さらに、紀州藩の史料である『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは1636年7月とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、ある時期まで紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。また、水戸家は家格の点でも徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。
徳川家康の十一男徳川頼房を家祖とし、江戸時代を通じて水戸藩を治めた。格式は御三家のひとつとして大廊下に詰め、屋形号を許された。領国の石高は実収が28万石程度であったが、御三家の格式をもって高直しをした結果、公称は35万石であった。これは水戸藩の財政を厳しくする一因でもあった。また、徳川宗家が「征夷大将軍」を表すために三葉を表にした表葵御紋であるのに対し、水戸家の葵御紋は三葉が裏になった裏葵御紋が正紋であるので、正式には御三家ではなかったとする説がある。さらに、紀州藩の史料である『南紀徳川史』では頼房が徳川姓を許されたのは1636年7月とし、それまでの33年間は「名字定まらず」としており、ある時期まで紀州家の祖である同母兄頼宣の分家とみなされていたという説もある。また、水戸家は家格の点でも徳川忠長や甲府徳川家の存在により何度も後退しており、御三家の第三位の地位が確立したのは徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。
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