日本国王良懐
1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにさらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしのその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川貞世に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにさらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしのその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川貞世に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
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