織田信長に臣従
1577年、順慶は他の諸将と共に雑賀一揆の反乱を鎮圧した。同年、久秀が信長に対して再度反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めている。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10日、遂に城は陥落。久秀父子は切腹または焼死した。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。
1577年、順慶は他の諸将と共に雑賀一揆の反乱を鎮圧した。同年、久秀が信長に対して再度反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めている。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10日、遂に城は陥落。久秀父子は切腹または焼死した。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。

『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。
返信削除と記載されていますが、大きな間違いです、『和洲諸将軍伝』を読まないで間違いを引用するとこうなります、
「入江大五良51歳は松永方で松永大二郎25歳父子共に刺し違えて死にけり」とあります、死人が遺骸を回収するのは怪談ですね。
12日に順慶諸士に命令して久秀の首を探させたが、焼けてしまって見つけられなかった。焼けてしまった残り、岩成小次郎、入江大五良、松永大次良、等を探し出して達磨寺に改めて葬り弔った、人皆情あり感涙を押した。
天主で自刃した全員を葬ったということです、久秀を介錯したのは岩成小次郎と記載されています。