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投稿

城昌幸(1904~1976)

若さま侍捕物手帖 柳橋米沢町、隅田川沿いの船宿・喜仙の二階座敷で、看板娘・おいとを相手に、日がな一日、酒を呑んでは居続ける“若さま”と呼ばれる侍。きりりとした男前だが、名前も身分も一切不詳。その若さまが、天下一品の直感の鋭さで、御用聞き遠州屋小吉が持ち込む怪事件をたちどころに解決する、安楽椅子探偵スタイルの時代小説。

テンジン・ノルゲイ(1914~1986)

エベレスト登頂後 テンジンは後にダージリンのヒマラヤ登山協会の実地訓練監督に就任した。1978年にはヒマラヤでのトレッキングを提供するテンジン・ノルゲ・アドベンチャーズを創設、2003年現在、息子のジャムリングが経営している。ジャムリング自身も1996年にエベレスト登頂に成功している。

箕作阮甫(1799~1863)

蕃書調所 1856年、江戸幕府が蕃書調所を開設すると首席教授を務めた。1858年には、阮甫が尽力してお玉ヶ池種痘所が設立された。当時は蘭方医と漢方医の対立も激しく、開設には非常な困難が伴ったが、主導的な役割を担い、伊東玄朴、大槻俊斎ら80名以上の蘭方医による醵金と幕府への働きかけを行い、私立の施設として開設されたものであった。蕃書調所とお玉ヶ池種痘所は、それぞれ現在の東京大学と東京大学医学部となっており、阮甫が東京大学の基礎を造った。

ジョンストン・マッカレー(1883~1958)

怪傑ゾロ メキシコがまだスペイン領だったころ、その辺境カピストラノ地方で活躍する仮面の剣士ゾロは、強きをくじき弱きを助ける、大盗賊にして真の紳士。賞金首のお尋ね者でもある反面、虐げられたインディオを助け、フェアに1対1の決闘に臨むなど、まさに正義の味方だった。彼が現れた後には、壁にサーベルでZの字が彫られ、これが彼のトレードマークであった。なお、原題 "The Mark of Zorro" の "mark" には「刻印、傷跡、彫り痕、象徴」という意味がある。

碓井貞光(954~1021)

御伽草子~酒呑童子~ 丹波国の大江山には、酒呑童子という鬼神が住んでいて多くの人を取っていた。源頼光はじめ6人の武士がこの鬼神を討つように命じられて、山伏姿で大江山へ入っていった。そして三社の神に守られて、ついに酒呑童子を討ちとった。大江山へ向かう前、源頼光と藤原保昌は石清水八幡宮へ、渡辺綱と坂田公時は住吉明神へ、碓井貞光と卜部季武は熊野権現に参籠している。貞光単独での目立った活躍はない。

ライオネル・ペンローズ(1898~1972)

ペンローズの階段 ペンローズの三角形の派生形の一つで90度ずつ折れ曲がって、永遠に上り続けても高いところに行けない階段を二次元で描いたものである。三次元で実現するのは明らかに不可能であり、歪みのパラドックスを利用した二次元でのみ表現できる。

保阪嘉内(1896~1937)

営農、入隊、文芸記者 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。1919年11月から、1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召した。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官に任じられた。

オットー・フランク(1889~1980)

ドイツ軍のオランダ占領 しかし1940年5月10日早朝にドイツ軍がオランダへ侵攻した。オットーはその日通常通りに会社に出勤した。オットー以下社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープは著書の中で回顧している。オランダ全土がドイツ軍によって占領され、25日にオランダ駐在国務弁務官として親衛隊中将アルトゥル・ザイス=インクヴァルトがオランダに派遣されてきた。

鶴姫(1526~1543)

大内氏との戦いと鶴姫の活躍 1541年6月に大内氏配下の水軍の将・白井縫殿助房胤らが侵攻すると、大祝職となった長兄・安舎に代わって次兄の安房が陣代となって三島水軍を率いて出陣し、河野氏や来島氏と連合して大内軍を迎撃するも討死した。兄の戦死を聞いた鶴姫は三島明神に祈請し、明神を守護しようとして甲冑を着て馬に乗り、大薙刀を振るって敵陣へ駆け込むと味方を奮起させ、大内軍を撃退したという。

ゲッシェ・マイブルク(1581~1617)

1615年夏のブラウンシュヴァイク攻囲戦 ブラウンシュヴァイク=リューネブルクやブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの諸公は、中世から近世にかけて何度もブラウンシュヴァイク市が所領に組み込もうとしており、1615年夏の攻撃もそのような試みの一つであった。同市は1615年7月22日から11月2日まで、公の軍に攻囲される。この時、その脅威はそれまでよりも大きいように思われた。なぜならブラウンシュヴァイク市は、所属していたハンザ同盟諸都市からの解囲軍を期待できなかったからである。

安倍泰親(1110~1183)

指御子 泰親は占術や天文密奏の分野において優れた才能を発揮するなど当代屈指の陰陽師となり、鳥羽法皇・後白河法皇の治天の君に仕えて後白河法皇のために毎月の泰山府君祭を行い、藤原頼長・兼実からも信頼されて摂関家にも奉仕した。頼長・兼実の日記である『台記』・『玉葉』には泰親がしばしば登場し、頼長は陰陽書によれば占いにおいて10のうち7当たれば「神」と称されるが、泰親は10のうち7・8を的中させ他人には真似が出来ないこと、占道は未だに地に墜ちず人が存在する、と泰親を高く評価している。日記・説話集・軍記物などにおいて、泰親に関する逸話が多く伝えられており、1148年の内裏火災や1172年の斎宮惇子内親王の急逝、1179年の政変、1180年の以仁王の挙兵などを予言したとされている。『平家物語』・『源平盛衰記』には泰親を「指御子」と称している。また、泰親の日記の一部が現存しており、泰親および天文博士を継いだ次男業俊による天文異変の記録とその解釈、天文密奏の内容などが書きとめられており、当時の天文道の内容を知ることができる。

ウィンター兄弟(兄1568~1606、弟1571~1606)

火薬陰謀事件~計画準備とロバートの加入~ 一味は計画のためにロンドン市内のプリンス・チェンバーにもほど近い不動産を借りた。この場所はテムズ川を挟んで対岸にケイツビーが所有するランデスのアジトがあり、ここから火薬や物資を川を渡って密かに運び入れた。後の当局の発表によれば、この拠点では貴族院地下に向かってトンネルを掘り始めたが、その後、直接貴族院地下室を借りることができたためにトンネル計画は放棄されたという。

鶴見祐輔(1885~1973)

戦時下の政界復帰 1937年1月、永田秀次郎らと宇垣一成内閣成立に参画するも、陸軍の反対に遭って失敗。同年4月、衆院解散を受けて行われた衆院選では岩手第2区から立候補し、当選。同年5月、民政党岩手県支部長。同年12月、人民戦線派の一斉検挙で逮捕された姪の石本静枝の釈放に尽力した。同月、国民使節として渡米し、中学を中退していた俊輔を同行させる。

ヘンリー・エイヴリー(1659~1696)

海賊史に残る掠奪 スペインを脱出したエイヴリーは西アフリカで活動後インド洋を目指して喜望峰を周り、たどり着いた先のマダガスカルやコモロ諸島でクルーの引き抜きと装備の補給を行った。エイヴリーは財宝を求めて紅海のアデン湾に位置するグアルダフィ岬にやってきたところ、偶然ムガル帝国の船を襲撃するためにこの海域を訪れていた海賊トマス・テューの船団と遭遇する。

新川和江(1929~2024)

名づけられた葉 ポプラの木にはポプラの葉何千何万芽をふいて緑の小さな手をひろげいっしんにひらひらさせてもひとつひとつのてのひらに載せられる名はみな同じわたしもいちまいの葉にすぎないけれどあつい血の樹液をもつにんげんの歴史の幹から分かれた小枝に不安げにしがみついたおさない葉っぱにすぎないけれどわたしは呼ばれるわたしだけの名で朝に夕にだからわたし考えなければならない誰のまねでもない葉脈の走らせ方を刻みのいれ方をせいいっぱい緑をかがやかせてうつくしく散る法を名づけられた葉なのだから考えなければならないどんなに風がつよくとも

ネッド・ケリー(1855~1880)

ネッドの活躍 ブッシュレンジャーとなったネッドは他のブッシュレンジャーがそうであるように、強盗を続ける。しかし、他のそれと一線を画したのは略奪の対象であり、その手口だった。彼らは貧しい存在には手を出さず、それどころか紳士的に振舞った。強盗に際しても相手を無闇に射殺することはなく、事実、彼らが殺害した相手は警官と裏切り者一人に限定されている。ネッドが強盗の際に着用した頭部全体を包むような円筒のヘルメットと体の各所を守る甲冑は、富裕層には恐怖の対象であり、貧しい民衆からは敬慕の対象であった。

谷川俊太郎(1931~2024)

春に この気もちはなんだろう目に見えないエネルギーの流れが大地からあしのうらを伝わってぼくの腹へ胸へそうしてのどへ声にならないさけびとなってこみあげるこの気もちはなんだろう枝の先のふくらんだ新芽が心をつつくよろこびだしかしかなしみでもあるいらだちだしかもやすらぎがあるあこがれだそしていかりがかくれている心のダムにせきとめられよどみ渦まきせめぎあいいまあふれようとするこの気もちはなんだろうあの空の青に手をひたしたいまだ会ったことのないすべての人と会ってみたい話してみたいあしたとあさってが一度にくるといいぼくはもどかしい地平線のかなたへと歩きつづけたいそのくせこの草の上でじっとしていたい大声でだれかを呼びたいそのくせひとりで黙っていたいこの気もちはなんだろう

ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ(1783~1872)

キリスト教思想 グルントヴィの神学思想の発展は、彼の生涯に渡っており、しかも何度か重要な方向転換(改心)が起きている。彼は、1810年「キリスト教信仰の覚醒」から、組合教会を信仰する方に変わり、のちには秘蹟主義のキリスト教に変わった。彼はその最晩年の思想において注目されてきた。彼は自分のことを常に牧師といい、決して神学者とは言わなかった、これは彼自身の宗教観と大学などの世界の神学の間の距離を反映しての表現である。彼の神学の主だった特徴は、使徒の注釈を「生きたことば」で置き換えるということにある。彼は、実際に独立した村々での信徒の集会に立ち会うことが常に熱望した。

橘曙覧(1812~1868)

独楽吟 たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時 たのしみはまれに魚煮て兒等皆がうましうましといひて食ふ時 たのしみは空暖かにうち晴し春秋の日に出でありく時 たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草すふとき たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來りて錢くれし時

バーバラ・マクリントック(1902~1992)

6年分の成果に対する聴衆の沈黙 マクリントックはしばらくの間、自身の研究成果は研究所の年報に載せる程度であり、発表よりも研究データの積み重ねに注力した。そしてついに1951年、コールド・スプリング・ハーバーのシンポジウムで成果を発表した。6年かけただけあって、マクリントックに言わせればデータはあらゆる反論に備えた完璧なものであった。