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山梨勝之進(1877~1967)

予備役へ ロンドン海軍軍縮会議の妥結のために尽力した山梨への、伏見宮博恭王や東郷平八郎を頂点とする艦隊派の反発は強く、伏見宮が「山梨はいったい、軍服を着ているのか」と述べたほどであった。艦隊派から忌避された山梨は、同年10月にロンドン海軍軍縮条約が批准された後に次官を更迭され、佐世保鎮守府司令長官、呉鎮守府司令長官を経て1932年に海軍大将に親任されたものの、翌1933年3月11日、大角人事により現役を追われた。この時、山梨は満56歳であった。

エレーナ・スタソヴァ(1873~1966)

2月革命後 1917年には党中央委員会の責任書記となり、1920年3月まで務めた。また、1917年の党第6回大会では中央委員候補となる。1918年の第7回大会で正式に中央委員となり、同大会及び1919年の第8回大会では女性として唯一選出された委員であった。しかし、1920年の第9回大会で中央委員会と書記局の両方から除名される。

高杉雅子(1845~1922)

晋作挙兵 功山寺挙兵後の晋作が四国に亡命していた頃、下関の芸妓である「おうの」を伴っていた。萩の家族には逃亡の目をくらますために連れていると説明している。1866年2月、幕府による長州再征を迎え撃つ準備に奔走していた晋作は本人の強い希望で正式に下関勤務になると、萩から晋作の世話をするため、雅は2歳の梅之進と晋作の母親ミチとともに下関にやって来る。入江和作邸でおうのと同棲していた晋作は妻妾の鉢合わせに困り果て、木戸孝允に泣きついて藩命を取り付けてもらい、長崎に旅立ってしまった。雅たちは白石正一郎邸に預けられたのち、4月には萩に戻った。後日、晋作からは雅への贈り物と平身低頭に詫びた長文の手紙が送られた。

リッカルド・ドリゴ(1846~1930)

フローラの目覚め 「フローラの目覚め」は、リッカルド・ドリゴ作曲、マリウス・プティパ振付の陽気なアナクレオン風の1幕物のバレエ。台本を書いたのはマリウス・プティパとレフ・イワノフである。