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8月, 2024の投稿を表示しています

内田百閒(1889~1971)

阿房列車~背景~ 本シリーズの舞台となる時代は、太平洋戦争後の鉄道が戦前の運行水準を回復しつつあった1950年から1955年にかけてである。3等級制が敷かれ一等展望車が走り、寝台車には車両専属の掛が存在した当時の様子が記されている。反面、例えば宇品線での「ぼろぼろの、走り出すと崩れさうな汽車に乗つた」など、ローカル線では未だ整備が行き届いていない様子も文章からうかがえる。鉄道や宿の接客に対しては態度や姿勢を問わず辛口である。

ヨヴァン・ネナド(1492~1527)

軍人としての経歴 1526年8月29日のモハーチの戦いで、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世がオスマン帝国軍に完敗し、敗走中に川で溺死した。戦後、ハンガリー王国は3つに分裂した。すなわち北部・西部のハプスブルク家領王領ハンガリー、東部トランシルヴァニアで自立した東ハンガリー王国、中部・南部のオスマン帝国に併合されたオスマン帝国領ハンガリーである。ラヨシュ2世に嗣子がいなかったことで、ハンガリー貴族の支持を受けるサポヤイ・ヤーノシュと、ラヨシュ2世の義兄弟のオーストリア大公フェルディナントの2人がハンガリー王位をめぐって争った。この闘争の中に、セルビア人傭兵部隊を率いて頭角を現したのがヨヴァン・ネナドである。

弘中隆包(1521~1555)

厳島の戦い 1551年に、陶隆房が義隆に対して謀反を起こして甥の大内義長を擁立した。隆包は謀反には反対論を通したが、反乱後に陶晴賢と共に義長に属したことから、同調していたとされる。なお、この頃の槌山城は菅田宣真が守っており、隆包の城ではなかった。

ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351~1402)

ミラノ大聖堂の建築 ジャンの治世は軍事を重点に置いたため、軍費による多大な出費などから圧政を敷かざるを得なかったが、ミラノは当時、死の病と呼ばれたペストの被害が極度に少なく、またジャン自身が文芸保護を推進し、ミラノ大聖堂を建築するなどの文化面の発展に尽くしたため、彼の治世の下ではミラノは大いに発展することとなったのである。