茶の品種改良 彦三郎の青年期における茶は日本国の重要な輸出品であり、その生産量は急速に伸びていた。彦三郎は農業と酒造業に力を入れ、遠江国の高橋勘右衛門や高橋力蔵に茶の栽培法や緑茶の製造法を学び、支那人に紅茶の伝習を受けた。明治政府における殖産興業に基づき、1871年から1877年には山林原野を開墾して約3町歩の茶園を造成し、1877年には勧農局の多田元吉に茶業の講習を受けている。1877年には小笠郡から招いた山田文助に製茶技術を学び、茶樹に優劣があることを会得した。しかし、茶業界では選種が軽んじられており、茶園をせわしなく歩き回って茶樹の優劣を見極めようとする彦三郎は「イタチ」と陰口を叩かれた。