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投稿

新川和江(1929~2024)

名づけられた葉 ポプラの木にはポプラの葉何千何万芽をふいて緑の小さな手をひろげいっしんにひらひらさせてもひとつひとつのてのひらに載せられる名はみな同じわたしもいちまいの葉にすぎないけれどあつい血の樹液をもつにんげんの歴史の幹から分かれた小枝に不安げにしがみついたおさない葉っぱにすぎないけれどわたしは呼ばれるわたしだけの名で朝に夕にだからわたし考えなければならない誰のまねでもない葉脈の走らせ方を刻みのいれ方をせいいっぱい緑をかがやかせてうつくしく散る法を名づけられた葉なのだから考えなければならないどんなに風がつよくとも
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ネッド・ケリー(1855~1880)

ネッドの活躍 ブッシュレンジャーとなったネッドは他のブッシュレンジャーがそうであるように、強盗を続ける。しかし、他のそれと一線を画したのは略奪の対象であり、その手口だった。彼らは貧しい存在には手を出さず、それどころか紳士的に振舞った。強盗に際しても相手を無闇に射殺することはなく、事実、彼らが殺害した相手は警官と裏切り者一人に限定されている。ネッドが強盗の際に着用した頭部全体を包むような円筒のヘルメットと体の各所を守る甲冑は、富裕層には恐怖の対象であり、貧しい民衆からは敬慕の対象であった。

谷川俊太郎(1931~2024)

春に この気もちはなんだろう目に見えないエネルギーの流れが大地からあしのうらを伝わってぼくの腹へ胸へそうしてのどへ声にならないさけびとなってこみあげるこの気もちはなんだろう枝の先のふくらんだ新芽が心をつつくよろこびだしかしかなしみでもあるいらだちだしかもやすらぎがあるあこがれだそしていかりがかくれている心のダムにせきとめられよどみ渦まきせめぎあいいまあふれようとするこの気もちはなんだろうあの空の青に手をひたしたいまだ会ったことのないすべての人と会ってみたい話してみたいあしたとあさってが一度にくるといいぼくはもどかしい地平線のかなたへと歩きつづけたいそのくせこの草の上でじっとしていたい大声でだれかを呼びたいそのくせひとりで黙っていたいこの気もちはなんだろう

ニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィ(1783~1872)

キリスト教思想 グルントヴィの神学思想の発展は、彼の生涯に渡っており、しかも何度か重要な方向転換(改心)が起きている。彼は、1810年「キリスト教信仰の覚醒」から、組合教会を信仰する方に変わり、のちには秘蹟主義のキリスト教に変わった。彼はその最晩年の思想において注目されてきた。彼は自分のことを常に牧師といい、決して神学者とは言わなかった、これは彼自身の宗教観と大学などの世界の神学の間の距離を反映しての表現である。彼の神学の主だった特徴は、使徒の注釈を「生きたことば」で置き換えるということにある。彼は、実際に独立した村々での信徒の集会に立ち会うことが常に熱望した。

橘曙覧(1812~1868)

独楽吟 たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時 たのしみはまれに魚煮て兒等皆がうましうましといひて食ふ時 たのしみは空暖かにうち晴し春秋の日に出でありく時 たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草すふとき たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來りて錢くれし時

バーバラ・マクリントック(1902~1992)

6年分の成果に対する聴衆の沈黙 マクリントックはしばらくの間、自身の研究成果は研究所の年報に載せる程度であり、発表よりも研究データの積み重ねに注力した。そしてついに1951年、コールド・スプリング・ハーバーのシンポジウムで成果を発表した。6年かけただけあって、マクリントックに言わせればデータはあらゆる反論に備えた完璧なものであった。

尚真王(1465~1527)

 内政~戦争~ 琉球諸島の統一にも力を入れており、琉球に存在する勢力の反乱を完全に鎮め、琉球諸島の統一を果たしている。