毛利家中の拡大 興元の代に毛利氏は、鎌倉時代の厳島神社領の地頭職の系譜を引いて安芸国の三篠川流域に自立的に割拠した中郡衆への影響力を強め、毛利家中への包摂が進んでいる。
思想 ケンブリッジ・プラトニズムの流れも汲み、しばしばプラトン主義も重視した。「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という「過程と実在」におけるくだりは有名であり、また「もし、プラトンが現代に蘇ったならば、間違いなく有機体の哲学を自身の哲学として語るであろう」という自負めいた言葉も残している。もっとも彼の「プラトニズム」は通常言われるような、生成消滅する世界の背後に真なる実在としてのイデアを見出すという意味のものとは異なっている。彼がプラトンを賞賛するのは、多様な解釈を可能にした思想の「豊かさ」あるいは「多義性」といったものである。実際彼の「イデア」にあたる「永遠的客体」はむしろアリストテレスの「内在形相」に類するものであり、彼にとっての真なる実在「現実的存在」はアリストテレス的な「個物としての実体」にあたり、その限りではむしろ彼はアリストテリアンと称すべきであろう。